Paris1984 から 1986 腐った生活
モンパルナス
  • 真ん中のモロッコ人のオヤジの家

    DublinからParisに戻ったばかりの頃

    英語やフランス語話せてヨーロッパ人のきれいな女性達連れて夜の街遊び回る、そういう生活に憧れ、実際22歳からは本当にそんな生活の毎日。


    昼頃起きだして、少し腹ごしらえして午後からみんな集まるカフェに繰り出す。そこに行けば誰か居るし、パリの学生街のカフェはビール1杯やエスプレッソ1杯で何時間居ても追い出されません。フランス語学校の傍なもので様々の人間が集まる、世界中の女も集まるわけです。私もその学校の国際的な雰囲気の中で勉強しましたが、いつの日からかインチキ偽学生。

     

    カフェに屯しているとこっちが動かなくても、授業前後の生徒達や近くに住む又は勤めているフランス人達も来るのです。毎日居ればみんな顔見知り、偶にはみんなで食事行ったり、色々な家に招待されたり、あるいは夜に再会し別の所に飲み行ったり、踊り行ったり。

     

    最初の頃はアラブ人グループとかユーゴスラビア人グループなど人種や国ごとに屯している男達が大体でした。会ったら適当に挨拶したりバカ話したり、当然敵対してるのも居ました。私も最初はモロッコ人、チュニジア人、アルジェリア人達は良く理解して無く、奴らとはそれなり距離置いてました。同じカフェで出くわしても同じテー ブルに座らないとか。

     でも酔っ払ったりしてビールとか一緒に飲む様になると変わってきます。回教徒の彼等もラマダンはみんなしていましたが、アルコールの接し方はそれぞれでした。

     

    一般的にフランスではマグレブ地方出身の彼等をあまり良く言いません。暴力的とか物盗む、信用出来ないなど。その頃、私なりの経験で国や地域で信用するのでなく自分の感覚で信用出きる奴、出来ない奴かを嗅ぎ分ける習慣が自然と身に付いてました。

     

    当時夜は焼肉屋さんでお世話になり日銭稼ぐバイトしていましたが、そこにはいい加減な酷い日本人が数人居ました。いやパリ全体駄目な日本人沢山居ました。当時、金をある日本人に貸しその野郎からはそれ以降音沙汰も無し。そうです、そういう連中の方が全く信用出来ません。日本人は信用出きる神話など存在しませ ん。同胞を騙して金も返さないで帰国して、感謝の手紙など勿論無いし、日本の落ち着き先も知らせてきません。屑ですね。帰ってしまえばこっちの物みたいな

     

    私は特にモロッコ人達のグループとは仲良くなりました。初めは彼等が何してるかも知らないし、何所に住んでいるかも知らない。でも段々と歩み寄り歳とかも知って、毎日のようにカフェで会う。80年代携帯など無かったし我々みんな貧乏で家に電話も無かった。だから嗅覚が優れていた、自然と何個かある屯する場所を使い分けていたものです。たとえば今日は良い女連れてるから見せびらかす為みんな集まっていそうなカフェ行くとか、今日はデートだから奴等の居なさそうな所行く等。

     

    和気藹々で様々な国の人達が居て、みんなお互いを仲間だと意識して素敵な空間でした。ただフランス語と同様に英語も磨かないといけないと感じ私はロンドン行きを決めていたのです。それと同時に飽きたのもありますが「too much harmony」です。あまりに素晴しいと熱い刺激が無いのです。バクダッドカフェの映画の中でもみんな和気藹々の状況下、変わった女性が上の台詞のように言って去って行く場面を見たような記憶があります。かなり前に見たので正確ではないですが、私は「おー!この女俺と同じだ。」と自分みたいなバカがやっぱり居るんだと。


     パリ去って英国は入れず、入れずでパリ戻るにはあまりにダサいからダブリンへ行き、前に書いたような生活しました。ダブリンの生活はかなりの収穫、大事な体験でしす。

     


    85年、年末前にパリに戻りみんなが集まるカフェに顔出してみると懐かしい顔がずらり、そして新しい美女達も。みんな私の帰りを大歓迎、ビールやカルバドスを酌み交わし揉みくちゃにされました。

     

    又同じ職場でお世話になり自分の時間が空いている時はカフェ。考えてみれば学校もそうですが自分の語学はカフェばーやパブで鍛えられました。

     

    奴等とも以前より深い付き合いで、新しい仲間も増えました。ダブリン行く前は自分は個人的に付き合いは会ったが、アラブ人達とはあまりそりが会わなかった黒人も数人同席してたのは大きな感激!又週末のディスコパーティーの再開。  

     

     平日はカフェ、週末はディスコ、時には誰かの家でクスクスをご馳走になったり。時には女の取り合いやカフェでの他の客やグループとのイザコザも普通にありました。

     

    私は以前との違いは毎日の水泳。小さな屋根裏部屋住まいで当然シャワーなど無し、昼の休憩時間はトレーニングと入浴を兼ねて公共のプールに、その習慣は今でも続いています。水泳やり出してそれまで忘れかけていた運動後の心地よい疲労とスッキリ感、スポーツの喜びを思い出しました。それまでは毎日カフェ、カフ ェ、ビール、カルバドスであまり食べ物にもワインにも関心無し、鶏がらの様な体つき。 

     

    モロッコ人でリーダー格のアミッド、そして少し気難しい所はあるが哲学的でスマートな頭脳のナイジェリアのジョゼフ。屯し出す前から面識はありましたが、つるむ様になってからは女取り合ったり、喧嘩したり、酔っ払いでゲロ吐いたり、ハッシシ吸って一緒にぶっ飛んだり、時には熱く政治や世の中の不満、将来の希 望など意見を戦わせたり。

     

    それに土曜に我々の出入りしていたクラブは地獄の様な所、1階バーでカウンターには厚化粧の怪しげな女達かなり歳も行ってる感じ。そうです娼婦です、しかも場末の。 

     地下はディスコ、でもパリのその他の場所とは大違い、土曜の夜なのに客など居ません。偶に居るのは兵役の有った当時のフランスで一時外出が許されて、行く所知らず誰かしらに聞いて飲みに来ている垢抜けないフランス人。


    カッコ良い服の男やきれいな女等とは全く無関係。昔しそこで働いていたラム(色々なクスリや酒が大好 きなスリランカ人の男)が我々を最初連れて行ったのです。オーナーはアメリカ人で誰も行かない危ない店に毎週我が軍団が大量に押し寄せるので喜んでましたね。  

     入場はただ。ワイン1本50フランとかそんな物。 毎回毎回なんだか問題はありました。仲間内でも仲悪い者同士とか人種問題での言い争い。

     酔っ払ってるし地下のあちらこちらでみんなブクブクとやってる、ハッシを水パイプで吸ってワイン喇叭飲み。ソファで隣に座っていた若い女が小便漏らしたり、誰かがどこかでゲロ吐いていたり、 殴りあいは勿論仲間内でも見ず知らぬ相手でも。


    店の用心棒はユーゴスラビア人で私には特に親切でした。うち等が北欧系のいい女連れてるものだから女紹介しろと、いつでも。

     12時ごろ集まってまだ正気、で、その後どう帰ったか誰が暴れたかなど憶えている奴はいません。アラブ人はパリ中のディスコ入れてもらえない所沢山有りましたからディスコでの振舞いなどわかっていません。デタラメです。好き放題出来て警察も来ない、酔っ払いぶっ飛び殴りあい、時には誰かがトイレでセックス。80 年代のspeak easyですね。


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